
大概在2026年二月的時候,我才開始喜歡上〈金盞花〉這首歌,但認識愛繆可能是更久之前。
2021年時,〈ハート〉這首歌,是《只是在結婚申請書上蓋個章而已》這部日劇的主題曲,我看了劇,記下了歌。
後來……劇忘了,歌卻留下了,只是歌手也成了記憶裡一個模模糊糊的印子。
直到2026,今年的二月,無意中又聽見〈ハート〉,心血來潮之下,才去找了其他首歌來聽。
我到底聽了幾首歌之後,才開始喜歡上〈金盞花〉的?如今回想已經完全記不清了,只知道有時候會無意識地哼起旋律,好幾次之後才確定是〈金盞花〉。
我喜歡〈金盞花〉的旋律、我喜歡愛繆的聲音,那麼歌詞呢?我不太確定……這種奇妙的空白與斷裂感,我喜歡嗎?
讀了好幾次,那個我以為的樣子,原來是好幾種讀法裡的一種。
忽然就覺得很有趣,開始找大家都怎麼解讀的、作者怎麼解讀的。
最後找到的居然是──歡迎大家來填空,我想著,怎麼會有這麼有趣的人?
三月的時候,我剛花了一個多月學會唱〈ハート〉,想了想,也許還可以有下一首。既然總是在哼〈金盞花〉,〈金盞花〉也理所當然地成為下一首。
我不會日文,只會從日劇、遊戲裡學來的那幾句。
一開始為了學唱〈ハート〉還去學日文,結果只有聽力進步。
〈金盞花〉從學會唱到可以不看歌詞唱,大概已經是一個多月之後了。
只是當我學會之後,卻完全沒有想繼續學下一首的想法,我不太確定我是不是那時候,已經隱隱在找一個我喜歡的讀法,所以沒有去聽別的歌。
總之,我只是成天泡在〈金盞花〉的聲音裡,上下班開車的時候聽、做飯的時候聽,它就像是一個背景音樂,只要是可以容許存在背景音樂的環境,它就不斷地在我耳邊重複……重複……
現在想來,又或許是我骨子裡有一點執拗,想著──
可不可以不要是兩個人分開的版本、不要是兩個人遠距離戀愛的版本?
我……能不能填一個幾乎沒人想過的版本,一個有完整故事跟著歌詞一起跑的版本,一個『兩個人一直一直在一起』的版本。
まあ~唱首歌,還得腦海裡有個故事跑,這件事怎麼看都很奇怪,對吧?
如果歌曲本身不搭配電影或電視劇,MV也不是一個完整的故事,要求一首歌有一個故事可以貼著歌詞一起跑,我好像沒有別首歌會這樣想,喜歡一段副歌、喜歡某幾句歌詞、喜歡歌曲的MV,甚至只是喜歡旋律,全部都足以支撐唱一首歌。
所以到底為什麼呢?是因為作者邀請大家來填空白,還是我就想看到它──可以是一個一直一直在一起的解讀?
我想可能兩者都有,也許……還多了我想填個沒人想過的版本,這種想要獨特性的衝動。
但如今回想起來,當時的我真的是固執得難以想像,因為從學會這首歌到填完空白,再到完整把故事寫出來,前後竟然花了四、五個月,儘管不是一整天都在想這件事,但每天坐下來思考一點,竟然持續了如此之久,無論怎麼想,都覺得很神奇。
那麼,我應該怎麼開始呢?
想念可以是人在眼前也想念嗎?
這裡的空白可以當成兩個人正在靠近嗎?
那年的夏天可不可以是兩個人同時想起來?
能不能人在眼前,可是一下子就哭了呢?
那些說不出口的想法是不是可以有很多解釋?
映在眼底可不可以是兩個人互相映照?
對未來的期望可不可以有不同的情緒和時間?
最後重複的副歌能不能不要只是重複?
我的故事是這樣建立起來的,一點一點,從中文歌詞、從日文翻譯,從日文的用法,過去式、現在式、未來式。
這段時間,我常常很苦惱,我用遍了我手邊的工具,自己找,找AI幫我找,我需要更多的資料、更多的想法。
但……我還是常常找不到東西填:
我不知道,愛繆是不是只是剛好經過,剛好看到花海裡有個戴草帽的人,還是她就站在旁邊看;
我搞不清楚到底是金盞花還是萬壽菊,因為兩種花語不同,所以我不能假裝它不存在;
我不知道她寫的時候知不知道花語;
我不知道她到底用女生視角還是男生視角為起點;
我不知道這些刻意留下的空白,原本有沒有一個答案;
我也不知道,故事究竟落在夏初還是夏末,夏天才剛開始,或是已經快要結束,會不會讓最後那份一直一直在一起的願望,帶上不同的心情;
即使後來有許多問題都找到了她本人受訪時的回答,甚至她的回答都更接近──指向不同的時刻,但我還是固執地想找一條這樣的路,哪怕最後有可能不是作者本來心中的想像。
我花了很多時間,才稍稍說服自己,如果我填出的畫面跟她最初想的不一樣,那……也許……也許這本身並沒有對錯?
在這之後,我才帶著這小小的安心,來來回回地尋找讓自己滿意的畫面跟解釋,每天花一些時間思考、有時會推翻、更多的時候是──沒有進度,就只是反覆地在聽這首歌。
我只是不想背叛任何一句歌詞,每一句……每一句我都想要握在手中,所以我必須在那些空隙之中,尋找可以連起來的路。
從四月、五月、到六月底,整首歌通往我想要的終點的那條路徑才稍微清晰起來,就像是前面每一天的努力,突然就把眼前的路展開了:
一個發生在同一個下午的故事,
一個關於兩個人明明帶著不安,卻都想先安慰對方的故事,
還有最後那份,要一直一直在一起的甜蜜與倔強──
終於小小……小小地浮現出它的輪廓。
我記得完成的那天,我的眼淚一直一直掉,而我完全不知道為什麼……
故事根本還沒寫出來,我只是找到了路,用上了每一句歌詞,僅此而已。
我猜,也許那時候我真的相信,我自己做成了一件只有我做到的事情,找到了一種也許還沒有人想過的讀法。
(小聲說:因為我連最後重複的副歌都一起放進去了)
但即使走到了終點,我仍然沒有完成〈金盞花〉的故事。
我以為到這裡就夠了,所以我減少了〈金盞花〉的播放,開始嘗試聽其他的歌……
直到八月〈金盞花〉八週年的時候,我才意識到,今年是愛繆出道十週年,而她十週年的活動跟我的認知不太一樣,這是一個持續整年的企劃,甚至從去年就開始。
我看著官網預告的那個──每晚放出一首歌的活動,忽然想,也許我應該把前面的想法集合起來,真的把它寫成一個故事。
一個〈金盞花〉的完整故事和畫面,然後我寫了兩個版本,我希望不論是男生還是女生,都可以有一個故事可以跟隨。
於是我嘗試從男女兩種視角,把故事區隔開來──讓她唱一次,也讓他唱一次。
同樣是唱歌的人望著戴草帽的人,換了說話的人,眼前的動作和心裡的話也跟著變了。
原來在不同身分的時候,那些歌詞也會跟著變化,我在這時候才有了這樣的體悟。
因為打從一開始到現在,我幾乎都用「她」的視角下去思考,即使我知道愛繆很常使用「僕」作為歌詞裡的第一人稱,但我就是直到現在,才好好地認真地用「他」的視角來看〈金盞花〉。
可是神奇的是,這次完全沒有像之前那樣的困難,即使我兩個視角刪刪改改總共寫了十幾個版本,但是走起來絲毫沒有之前那樣磕磕絆絆、找不到路的感覺。
這麼多版本,其實始終圍繞著一個問題──就是唱歌的人,究竟帶著什麼心情看戴草帽的那個人?
這其實很有趣,而且是歌詞本身很有趣,在切換視角的時候,這些──
示弱、回想起過去、看到對方哭、擁抱、說不出口的話、仰望未來、吻、甚至是最後的重複,所有所有的心情,幾乎都要重新思考。
想像自己是誰,眼前的人對自己來說是什麼,就算寫出來的故事有些相同,但幾乎是完全不同的心情。
定稿的那天,是八月的最後一天,那時候版本已經有快二十個,兩個視角各占一半。我大概用了一個禮拜的時間在修修改改,我並沒有焦急,即使我那時候給自己定的期限就是八月底。
完成的當下,我是很高興的,因為我覺得,我終於能讓她和他帶著讀者走進那個下午──那個一直一直在一起的下午了。
希望看到這篇的你們,能喜歡我填出來的故事。
木末 2026/09/30
獻給──愛繆的〈金盞花〉
日本語版
「マリーゴールド」という曲を好きになったのは、たぶん2026年の2月ごろだった。でも、あいみょんを知ったのは、もっと前だったと思う。
2021年、「ハート」は『婚姻届に判を捺しただけですが』というドラマの主題歌だった。私はドラマを観て、その曲を覚えた。
その後……ドラマは忘れてしまったけれど、歌は残った。ただ、歌っている人のことも、記憶の中ではぼんやりとした印象になっていた。
そして2026年、今年の2月。偶然また「ハート」を耳にして、ふと思い立ち、ほかの曲も探して聴いてみた。
いったい何曲聴いてから、「マリーゴールド」を好きになったのだろう? 今となっては、もうまったく思い出せない。ただ、ときどき無意識にメロディーを口ずさんでいて、それが何度か続いてから、ようやく「マリーゴールド」だとわかった。
「マリーゴールド」のメロディーが好き。あいみょんの声が好き。じゃあ、歌詞は? よくわからない……この不思議な余白と、ところどころ途切れているような感じを、私は好きなのだろうか?
何度も読んでみて、自分が思い描いていたものは、いくつもある読み方のひとつだったんだ、と気づいた。
急に面白く感じて、みんなはどう読んでいるのか、作者はどう捉えているのか、探し始めた。
最後にたどり着いたのは、なんと──どうぞ、みんなで余白を埋めてください、ということだった!こんなに面白い人がいるんだ、と私は思った。
3月、私はひと月あまりかけて、ようやく「ハート」を歌えるようになったところだった。考えてみると、もう一曲、覚えてもいいかもしれない。いつも「マリーゴールド」を口ずさんでいるのだから、次の曲も当然のように「マリーゴールド」になった。
私は日本語ができない。知っているのは、ドラマやゲームで覚えた、ほんのいくつかの言葉だけ。
最初は「ハート」を歌えるようになりたくて、日本語の勉強まで始めたけれど、結局、上達したのは聞き取りだけだった。
「マリーゴールド」を歌えるようになってから、歌詞を見ずに歌えるようになるまでには、たぶんひと月あまりが経っていた。
ただ、歌えるようになったあとも、次の曲を覚えようという気にはまったくならなかった。そのころにはもう、自分の好きな読み方をぼんやりと探し始めていて、だからほかの曲を聴かなかったのかもしれない。そこは、自分でもよくわからない。
とにかく、一日中「マリーゴールド」の音に浸っていた。通勤で車を運転しているときも、料理をしているときも聴いていた。BGMのように、音楽を流していてもいい場所なら、いつでも耳元で繰り返し……繰り返し……
今思えば、もしかすると私は根っこのところで少し頑固で、こんなことを考えていたのかもしれない──
ふたりが離れ離れになるバージョンでも、遠距離恋愛のバージョンでもないものに、できないだろうか?
私は……ほとんど誰も考えたことのないバージョンで、この余白を埋められないだろうか。ひとつの物語が最初から最後まで歌詞と一緒に進んでいくバージョン。『ふたりがずっとずっと一緒にいる』バージョンを。
まあ~歌を一曲歌うのに、頭の中で物語まで走らせなきゃいけないなんて、どう考えても変な話だよね?
映画やドラマで使われている曲でもなく、MVもひとつの完結した物語ではないのに、歌詞に寄り添って一緒に進んでいく物語が欲しいなんて、ほかの曲では考えたことがない気がする。サビが好き、歌詞の何行かが好き、MVが好き、あるいはただメロディーが好き。それだけでも、その曲を歌う理由としては十分なのに。
じゃあ、どうしてなのだろう? 作者が、みんなに余白を埋めてほしいと言っていたから? それとも私は、ただ見たかったのだろうか──ずっとずっと一緒にいる、そんな読み方ができるところを。
たぶん、その両方だと思う。それに、もしかすると……誰も考えたことのないバージョンで余白を埋めたいという、自分だけのものを求める衝動もあったのかもしれない。
でも今振り返ると、あのころの私は、自分でも信じられないほど頑固だった。この曲を歌えるようになってから、余白を埋め終え、物語を最後まで書き上げるまでに、なんと4、5か月もかかったのだから。一日中このことを考えていたわけではないけれど、毎日座って少しずつ考えることが、こんなにも長く続いた。どう考えても、不思議で仕方がない。
それじゃあ、どこから始めればいいのだろう?
目の前にいる人を、恋しく想うこともできるだろうか?
ここの余白は、ふたりが近づいている時間だと考えてもいいだろうか?
あの年の夏を、ふたりが同時に思い出しているのでもいいだろうか?
相手が目の前にいるのに、ふいに涙がこぼれることもあるだろうか?
口にできない想いには、いろいろな解釈があってもいいだろうか?
瞳に映るというのは、ふたりがお互いを映し合っているのでもいいだろうか?
未来への願いには、異なる気持ちや時間が込められていてもいいだろうか?
最後に繰り返されるサビは、ただの繰り返しでなくてもいいだろうか?
私の物語は、こうして少しずつできていった。中国語に訳された歌詞から、日本語を訳してみることから、そして日本語の使い方、過去・現在・未来の表し方から。
この間、私はよく悩んでいた。手元にあるツールを片っ端から使い、自分で調べ、AIにも探すのを手伝ってもらった。もっと資料が、もっと考える手がかりが必要だった。
でも……それでも、余白を埋めるものはなかなか見つからなかった。
あいみょんは、たまたま通りかかって、花畑の中に麦わら帽子をかぶった人を見かけただけなのか、それとも、そのすぐそばに立って見ていたのか、わからなかった。
中国語では曲名が「金盞花」と訳されているけれど、金盞花(キンセンカ)なのか、万寿菊(マンジュギク)なのか、はっきりわからなかった。ふたつの花では花言葉が違うから、その違いをなかったことにはできなかった。
書いたとき、彼女が花言葉を知っていたのかも、わからなかった。
女の子の視点から書き始めたのか、男の子の視点からだったのかも、わからなかった。
意図して残された余白に、もともとはひとつの答えがあったのかも、わからなかった。
物語が夏の初めなのか、夏の終わりなのかも、わからなかった。夏が始まったばかりなのか、もうすぐ終わるのかで、最後の、ずっとずっと一緒にいたいという願いに込められる気持ちも、変わるのだろうか。
その後、多くの疑問について、彼女自身がインタビューで答えているのを見つけた。その答えはむしろ──それぞれ異なる時点を指し示しているようでもあった。それでも私は、頑固に、こういう道を探したかった。たとえ最後にたどり着くものが、作者の最初のイメージとは違っていたとしても。
ずいぶん時間をかけて、ようやく少しだけ自分を納得させることができた。私が余白を埋めて描いた景色が、彼女が最初に思い描いたものと違っていても、それは……もしかすると……もしかすると、そもそも正しいとか間違っているとかいうことではないのかもしれない?
それからは、この小さな安心を抱えて、行きつ戻りつしながら、自分が納得できる景色や解釈を探した。毎日少しずつ考えて、ときには考えをひっくり返し、でも、それよりも多かったのは──何も進まず、ただこの曲を繰り返し聴いている時間だった。
私はただ、歌詞のどの一行も裏切りたくなかった。一行一行……その一行一行を、この手に握っていたかった。だから、その隙間の中に、つなげていける道を探さなければならなかった。
4月、5月、そして6月の終わりになって、曲全体を、私の望む終着点へとつなぐ道が、ようやく少し見えてきた。それまでの一日一日の積み重ねが、突然、目の前に道を開いてくれたようだった。
すべてが同じ日の午後に起きる物語。
ふたりとも不安を抱えているのに、それぞれが先に相手を安心させようとする物語。
そして最後にある、ふたりの甘さと、ずっとずっと一緒にいたいという譲れない想い──
その輪郭が、ようやくほんの少し……ほんの少し、浮かび上がってきた。
できあがった日のことは覚えている。涙がずっとずっとこぼれていて、どうしてなのか、自分でもまったくわからなかった……
物語は、まだ書いてもいなかった。ただ道を見つけて、歌詞の一行一行を全部使えた。それだけだった。
たぶん、あのとき私は、自分にしかできなかったことを成し遂げたのだと、本当に信じていたのかもしれない。もしかすると、まだ誰も考えたことのない読み方を見つけたのだと。
(小声で言うと……最後に繰り返されるサビまで、全部入れたからです)
でも、終着点までたどり着いても、私はまだ「マリーゴールド」の物語を完成させてはいなかった。
ここまでで十分だと思っていた。だから「マリーゴールド」を流す回数を減らして、ほかの曲も聴いてみるようになった……
8月、「マリーゴールド」が8周年を迎えるころになって、ようやく気づいた。今年はあいみょんのデビュー10周年なのだと。そして、その10周年の活動は、私が思っていたものとは少し違っていた。一年を通して続く企画で、しかも去年から始まっていた。
公式サイトで予告されていた、あの──毎晩一曲ずつ公開していく企画を見ていて、ふと思った。これまで考えてきたことをひとつに集めて、本当に物語として書いてみたほうがいいのかもしれない。
「マリーゴールド」の、最初から最後までつながった物語と、その景色を。そして私は、ふたつのバージョンを書いた。男の人にも女の人にも、たどっていける物語があってほしかった。
そこで、男女それぞれの視点から、物語を書き分けてみた──彼女に一度歌ってもらい、彼にも一度歌ってもらう。
歌う人が、麦わら帽子をかぶった人を見つめていることは同じでも、語る人が変わると、目の前の仕草も、心の中の言葉も変わっていった。
誰の立場に立つかによって、あの歌詞も変わっていくのだと、そのとき初めて実感した。
最初からここまで、私はほとんどずっと「彼女」の視点で考えていた。あいみょんが歌詞の一人称によく「僕」を使うことは知っていたのに、それでも、ここに来てようやく、ちゃんと真剣に「彼」の視点から「マリーゴールド」を見たのだった。
でも不思議なことに、今回は前のような難しさがまったくなかった。ふたつの視点を何度も削ったり直したりして、合わせて十数ものバージョンを書いたけれど、以前のようにつまずいたり、道が見つからなくなったりする感じは、少しもなかった。
これだけのバージョンを書いても、ずっと考えていたのはひとつのことだった──歌っている人は、いったいどんな気持ちで、麦わら帽子をかぶった人を見ているのだろう?
これは本当に面白かった。そして、歌詞そのものが面白いのだと思う。視点を切り替えるときには、こうしたこと──
弱さを見せること、過去を思い出すこと、相手の涙を見ること、抱きしめること、言えない言葉、未来を見上げること、キス、最後の繰り返しさえも、そのひとつひとつの気持ちを、ほとんど全部、考え直さなければならなかった。
自分は誰なのか、目の前の人は自分にとってどんな存在なのかを想像する。書き上げた物語には同じようなところがあっても、そこにある気持ちは、ほとんどまったく違っていた。
最終稿ができたのは、8月の最後の日だった。そのころには、バージョンはもう20近くになっていて、ふたつの視点が半分ずつを占めていた。だいたい一週間、何度も手を入れていた。自分で決めた締め切りは8月末だったけれど、焦りはなかった。
完成したときは、うれしかった。ようやく彼女と彼に、読者をあの午後へ連れていってもらえると思ったから──ずっとずっと一緒にいる、あの午後へ。
これを読んでくださったみなさんが、私の埋めた余白から生まれた物語を、好きになってくれたらうれしいです。
木末 2026/09/30
──あいみょんの「マリーゴールド」に捧ぐ
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